
私にとっての「死」は「無」です。よく死んだ後は霊や魂になるとか、天国や地獄に行くとか、現世を彷徨い続けるとか、閻魔大王がどうとか言いますが、そもそも前述のように「自分は死んだ」という事すら認識できないのですから私は「無」だと思っています。と言っても私自身恐怖心はあります。「死」というのは誰もが容易に経験できるものではない(事故で生死の境を彷徨う事はそうそうないので)のに、いずれは誰もが経験する事になる絶対的なものでもあるからです。来るのが分かっていて逃れられないというのはやはり怖いものです。というより地球上を探してみても、むしろ死が怖くない人の方が少ないと思いますが、世の中には「宗教」というものがあって、「死」に対する恐怖を和らげてくれます。「死」がどういうものかを考える機会なんて人生の最後の一瞬ぐらいですから、外側からでも良いので宗教を学んでみるのも「死」に対する理解が深まるきっかけになるかもしれません。
尚、私は無宗教です。宗教そのものは否定しませんが、私にとっての宗教とは、逃れる事ができない「死」のような恐怖に対する解釈を変える事で、少しでも恐怖を和らげようとするものだと考えます。何か大きな恐怖があり、それから逃れる術がない時、何かにすがってでも救われたくなるのは理解できます。しかし差し迫った恐怖がないのに、最初から宗教にすがるというのは人生においては「甘え」に繋がると私は思います。この世に神様がいるとすれば、神様は、人間が何か困った事がある度に手を差し伸べてくれるほど都合の良い存在ではありません。何か困った事がある度にただ祈っているだけで、自分からは何も行動を起こさない・何も考えないという他力本願は単なる怠慢です。時間は有限であり、その時間と戦った者にだけ手を差し伸べてくれる(・・・のかもしれないが、都合良く「手を差し伸べてくれる」等と期待している時点でそれも「甘え」。例え結果が伴わなくとも行動を起こした人には幸福が訪れ、その結果として「神様は味方した」と人間が勝手に解釈しているだけ)のです。